19歳の春、息道のもとを辞して、旅に出ました。今の岐阜・福井県・愛媛県・広島県の寺を訪ね歩きました。しかし、才気ある故の慢心からか、仏法に対する迷いが生じ、出家したことを後悔するようになりました。
仏像や経巻を見ることにさえ嫌悪を覚えました。詩歌に耽りました。
20歳の春、美濃の瑞雲寺の馬翁和尚の処にいました。膨大な本が虫干しされている中から、「護法天竜(仏法守護の諸天善神)よ。願わくば我に正路を示したまえ」と念じて手にした一冊が『禅関策進』でした。明の雲棲が撰した、禅修業の用心策励となるべき古人の言行を集成したものです。慈明(唐僧・石霜山楚円禅師のこと)が錐で自分の股を刺して睡魔と戦い、座禅したエピソードに感銘しました。すっかり堕落していた我が非を深く反省して、再び修行する決意をしました。
その年の6月、故郷の原から母の死を知らせる手紙が届きました。母の最後の願いとして「一心に修行して、世の人々を救うことのできる人になって下さい」と書かれていました。手放したくない我が子を仏門に入れた切ない親心に涙しました。親不孝を償う為にも、改心を誓いました。
21歳の春、馬翁のもとを辞し、洞戸の保福寺の南禅和尚、伊自良の東光寺の大巧和尚のもとを経て、若狭小浜の常高寺に万里和尚を尋ねました。
22歳の夏、四国の伊予の正宗寺で逸堂和尚の『仏祖三経』の講義を聴き、大いに感ずるところがあって、自信を回復し、修行を続ける決心を強めました。
備後福山の正寿寺の正宗賛会に参加し、終わって東行しました。
伊勢路にはいった時、馬翁の病気を聞き、急ぎ美濃瑞雲に至り、3ケ月間、献身的に看病しました。馬翁の病が快癒して、松蔭へ帰りました。
その翌年、24歳の1707年11月22日の夜より翌朝まで、富士山の大噴火がありました。宝永山ができたのを以って、大自然の驚異を知ります。その折り、他の者達は寺を飛び出して他所へ避難しましたが、慧鶴のみ寺に留まって座禅をしていたと言い伝えられています。悟りの境地を得ようと捨て身だったのでしょう。
翌年、24歳の春、越後高田英厳寺へ行き、生鉄(しょうてつ)和尚の人天眼目会(宋の智昭が編集した、五家の宗網を明らかにした書)に参加しました。
その縁で、信州飯山の正受庵慧端和尚にまみえました。慧端は慧鶴の高慢を罵り、時には打ち据えて、厳しく接しました。約8ケ月の間、正受庵にいて、遂にひとつ解脱(悟る)しました。生鉄和尚に後継を求められましたが、何故か応じず、松蔭へ戻りました。
松蔭へ帰ってからは、各地の『金剛経』『正宗賛』『碧巌集』などの講座の列席しています。悟達への飽くなき求道心があったのでしょう。
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