やがて『白隠禅師』の名は四方に広がり、僧侶だけでなく、大名や武士、農民や町民まで、教えを求めて松蔭寺を訪れるようになりました。
寺の大広間で数百人の人々に仏法を説くこともあれば、田圃の畦道に腰をおろして、農家の年寄りと親しく仏教説話を語りました。村人達に慕われました。
1736年(元文元年)52歳の時、僧堂が初めてできました。貧乏寺も、住職20年にして面目を整えました。
1740年(元文5年)56歳の春、『虚堂録』を提唱しました。集まった修行僧は400余人でした。その時の開講に際しての解説は1743年(寛保4年)に上梓されました。この会(え)で白隠の名は天下に広まりました。
1749年(寛延2年)門人等に請われて『大灯録』を提唱しました。
1751年(宝暦元年)67歳で備中井山の宝福寺に行き『四部録』を提唱しました。次いで、妙心養源院で『碧巌録』を講じました。
1752年(宝暦2年)68歳、比奈(吉原市)の無量寺が改築落成します。白隠を開祖として、東嶺が住職となります。1753年(宝暦3年)69歳。美濃東光寺で『毒語心経』を講じ、正受老人の33回忌を修しました。
1759年(宝暦9年)75歳、江戸深川臨川寺で『碧巌録』を講じました。上野池の端東淵寺で残りを講じました。『十句観音経霊験記』を書きました。12月、至道無難禅師の遺蹟、小石原の至道庵を入手して帰国しました。
1760年(宝暦10年)76歳、2月、東嶺の尽力で三島龍沢寺が落成し、白隠開山となり、東嶺が住職となりました。
1764年(宝暦4年。明和と改元)80歳、2月『大応録』を講じ3月に終了しました。非常な盛会でした。この頃より疲労が酷くなりました。
1766年(明和3年)82歳、江戸に至り、渋谷東北寺に無難禅師の墓参をしました。小石原至道庵に入り、改築の状況を見ておおいに喜び、半年滞在しました。その間、日々法施を行じました。東嶺も師を助けて『碧巌集』を講じたりしました。多くの僧俗が集まりました。冬、松蔭に帰りました。
1768年(明和5年)11月、松蔭にて臥床します。12月11日の暁、遷化しました。84歳でした。
門人達が松蔭、龍沢、無量の三寺に分骨して塔(墓)を作りました。
明和6年、神機独妙禅師と朝廷より謚(おくりな)されました。明治17年には更に正宗国師と追号されました。
参考書 伊豆山格堂 著「遠羅天釜」 春秋社 刊 です。
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